昆虫の翅は、季節が変わるたびにすべての種類で一律に大きくなったり小さくなったりするわけではありません。しかし一部の昆虫では、幼虫や若虫の時期に経験した温度、日長、個体密度、餌の状態などによって、成虫になったときの翅の長さや、飛べる長翅型・飛びにくい短翅型の割合が変化します。
この現象は、同じ遺伝的背景をもつ個体でも環境によって異なる形をつくる表現型可塑性の一例です。なかでも、同じ種から翅のある型と翅のない型、長翅型と短翅型のように、はっきり異なる形が現れる場合は翅多型・翅多化と呼ばれます。
つまり「昆虫の翅が季節や環境で変わる」とは、完成した成虫の翅が後から伸び縮みするという意味ではありません。発育中に受け取った環境情報が、翅をどれだけ発達させるかという成長プログラムへ影響するという意味です。
成虫になった後でも翅の長さは変わるの?
基本的には変わりません。昆虫の翅は、幼虫・若虫期や蛹期に形成され、成虫への脱皮や羽化の時点で大きさがほぼ決まります。
成虫の外骨格は硬化するため、その後に環境が変わっても、完成した翅が新しく長くなったり短くなったりするわけではありません。
したがって、季節によって成虫の翅長が違って見える場合は、その季節に捕まえた成虫が、幼虫期に異なる温度・密度・日長などを経験していた可能性を考える必要があります。
たとえばコガタアカイエカでは、野外で夏に成虫の翅が短くなる季節変化が毎年見られ、室内実験でも高温や幼虫密度が翅長へ影響することが示されています。
なぜ高温だと翅が短くなることがあるの?
昆虫は外温動物なので、成長速度は周囲の温度に強く左右されます。一般に、活動可能な範囲では温度が高いほど発育が速くなり、幼虫期が短くなることがあります。
発育期間が短くなると、成虫になるまでに体や翅を成長させる時間も変わります。その結果、高温で育った個体ほど小型になり、翅も短くなる種があります。
コガタアカイエカの研究では、野外個体群で夏季に翅長が短縮し、室内でも温度と幼虫密度が翅長へ影響しました。こうした結果は、季節そのものが翅へ直接作用するのではなく、季節に伴う温度条件が発育速度と最終サイズを変えることを示しています。
ただし、すべての昆虫で高温ほど短翅になるわけではありません。翅型の決まり方は種ごとに異なり、後述するように高温が長翅型を増やす例もあります。
なぜ個体密度が高いと飛べる翅が増えることがあるの?
餌場や植物上で個体が増えすぎると、餌不足や競争が起こりやすくなります。そのような環境では、その場所にとどまるより、新しい場所へ移動できる個体のほうが有利になる場合があります。
このためアブラムシでは、混雑や寄主植物の悪化などのストレス条件が、翅のある娘個体の出現を促すことがあります。近年の研究では、母親が受けた接触刺激や混雑情報が神経・内分泌系へ伝わり、その後の子の翅発達に影響する仕組みが研究されています。
これは、環境がその場の成虫の翅を生やすのではなく、次世代の発育プログラムを移動型へ切り替える例です。
翅をつくり飛翔筋を維持するにはエネルギーが必要ですが、環境が悪化したときにはそのコストを払ってでも分散能力を持つ利益が大きくなるのです。
長翅型と短翅型にはどんな違いがあるの?
長翅型は、一般に飛翔能力が高く、新しい生息場所へ移動しやすい特徴があります。一方、短翅型や無翅型では、飛行に必要な翅や飛翔筋への投資を減らし、その分を成長や繁殖へ回せる場合があります。
つまり翅型には、移動する能力と、その場所で繁殖する能力のトレードオフがあることがあります。
環境が安定し、餌が十分にあり、同じ場所で繁殖し続けられるなら、飛ぶための大きな翅を維持する必要は小さくなります。逆に、餌が枯れる、個体密度が上がる、季節が進んで環境が悪化するなら、長翅型が新しい場所へ移動できる利点が大きくなります。
このため、同じ種の中に長翅型と短翅型の両方が残ることがあります。
日長は翅型にどう影響するの?
日長は、昆虫が季節を予測するための重要な手がかりです。温度は日ごとの変動が大きいですが、日の長さは季節に応じて規則的に変化します。
一部の昆虫では、幼虫・若虫期に経験する長日・短日条件によって、成虫の翅型や翅模様が変化します。
カマドコオロギを用いた研究では、長翅型の出現率が温度、日長、飼育密度の組み合わせによって変わりました。日長だけで決まるのではなく、同じ日長でも温度が違えば長翅型の出現率が異なることが示されています。
つまり昆虫は、日長を単独で読み取るのではなく、温度や密度など複数の情報を組み合わせて「今後移動する必要が高いか」を判断する場合があるのです。
同じ種類でも、季節によって翅の模様まで変わるの?
変わる種類があります。これは翅の長さだけではなく、季節型と呼ばれる色や模様の変化です。
アオタテハモドキでは、温度と日長によって成虫の後翅の眼状紋や色彩が変わることが実験的に示されています。高温・長日では眼状紋や橙色が発達し、低温・短日では模様が弱くなる傾向が見られました。
このような季節型は、翅の大きさとは別の表現型可塑性です。発育中に受け取った季節情報が、成虫の翅にどの色素や模様をつくるかという発生過程へ影響します。
したがって「翅が環境で変わる」という現象には、長翅型・短翅型のような構造差だけでなく、色や模様の季節変化も含まれます。
餌の状態も翅型に影響するの?
影響する種類があります。特にアブラムシでは、寄主植物の質が低下すると有翅型が増えることが知られています。
餌の質が悪くなると、その場所で成長や繁殖を続ける利益が小さくなります。そのため、移動能力をもつ個体をつくり、別の植物へ分散することが有利になります。
逆に、餌が豊富で混雑も少ない環境では、飛翔能力より繁殖へ資源を回す無翅型が有利になりやすい場合があります。
ここでも重要なのは、環境が完成した個体の翅を変えるのではなく、発育中の個体または次世代の翅形成を変えることです。
環境情報はどうやって翅の発育へ伝わるの?
昆虫は、温度、光周期、接触刺激、栄養状態などを感覚器や体内の代謝状態を通じて受け取ります。その情報は神経系や内分泌系へ伝えられ、翅原基の成長や退縮を調節します。
アブラムシの翅多型では、古くから幼若ホルモンが候補として考えられてきましたが、近年はエクジソン系の関与を示す研究が進み、混雑刺激を神経伝達物質や内分泌シグナルへ変換する経路も詳しく調べられています。
つまり「混んでいるから翅を生やそう」という意識的な判断ではありません。環境刺激が生理シグナルへ変換され、そのシグナルが発育中の組織へ働くことで、異なる翅型がつくられます。
なぜすべての昆虫が環境で翅型を変えないの?
表現型可塑性にもコストがあるからです。環境を感知する仕組み、複数の発育プログラム、発育を切り替える内分泌系を維持するにはエネルギーが必要です。
また、環境が毎年ほぼ一定なら、わざわざ複数の翅型をつくり分ける必要は小さくなります。逆に、餌場が急に悪化する、個体密度が大きく変わる、季節によって移動の必要性が変わる環境では、可塑的に翅型を変えられる利点が大きくなります。
そのため、翅多型はすべての昆虫に共通する性質ではなく、変動する環境へ適応してきた一部の系統で発達しています。
気候変動で翅型の割合も変わる可能性があるの?
可能性があります。気温上昇や季節の変化は、発育速度だけでなく、日長と温度の組み合わせ、寄主植物の状態、個体密度の変化を通して翅型へ影響する可能性があります。
ただし、日長そのものは温暖化しても変わりません。そのため、日長を強く利用する種では、温度と日長の季節的な組み合わせがこれまでとずれることがあります。
また、害虫では有翅型の増減が分散距離や新しい作物への移動へ影響するため、翅多型の環境応答を理解することは発生予測にも重要です。
昆虫の翅が環境で変化する仕組みを一言でまとめると?
一部の昆虫で翅の長さや翅型が季節・環境によって変化するのは、幼虫・若虫期や親世代が受け取った温度、日長、密度、餌の状態などの情報が、神経・内分泌系を通じて翅の発育プログラムを変えるからです。
ただし、完成した成虫の翅が後から伸びたり縮んだりするわけではありません。また、すべての昆虫が長翅型・短翅型をつくり分けるわけでもありません。
つまり昆虫の翅の環境変化とは、発育中に将来の移動需要を予測し、飛翔能力への投資量を変える表現型可塑性なのです。
参考資料
- 日本生態学会誌「季節適応としての昆虫の表現型可塑性」
- 衛生動物「コガタアカイエカの翅長に及ぼす温度と幼虫密度の影響」
- Aphid wing plasticity: hormonal and epigenetic control mechanisms
- Polyphenism – A Window Into Gene-Environment Interactions and Phenotypic Plasticity
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