発酵食品の香りは、発酵開始から完成までずっと同じではありません。仕込み直後には原料そのものの香りが目立っていても、発酵が進むと果実様、花様、乳製品様、熟成様などの香りが強くなり、さらに時間がたつと一部の香気成分が減ることもあります。温度を変えるだけでも、同じ原料・同じ微生物から生じる香りの比率は変化します。
発酵中の香気成分が温度や時間で増えたり減ったりするのは、香りが「作られる」だけではなく、微生物による生成、別成分への変換、再利用、化学反応、発酵ガスによる揮散などが同時に起こり、その速度が温度と発酵段階によって変わるからです。したがって、ある香気成分の濃度は「これまでに作られた総量」ではなく、その時点までの生成と消失の差として決まります。
香気成分の濃度は「生成量-失われた量」で決まる
発酵中の香りを理解するとき、最初に重要なのは、香気成分が一度作られたらそのまま残り続けるわけではないという点です。
酵母や乳酸菌は、糖、アミノ酸、脂肪酸、有機酸などから高級アルコール、エステル、アルデヒド、ケトン、有機酸、硫黄化合物などを作ります。一方、できた成分の一部は別の物質へ変換されたり、微生物に再利用されたり、気体側へ移って発酵槽から失われたりします。
そのため、分析した時点で観測される濃度は、生成速度と消失速度のバランスで決まります。発酵中に香気成分が増えた後で減る現象は、このバランスが途中で逆転した結果です。
発酵初期は原料香が強く、微生物由来の香りはまだ少ない
発酵開始直後は、微生物の菌数や代謝量がまだ小さく、発酵由来の香気成分も十分には蓄積していません。
この段階では、ブドウ、米、麦、牛乳、野菜など原料そのものが持つ香りが相対的に強く感じられます。
微生物が新しい環境へ適応し、増殖を始めると、糖やアミノ酸などの代謝が盛んになります。そこから高級アルコール、エステル、アセトアルデヒド、ジアセチルなどの発酵由来成分が増え、香りの中心が徐々に原料香から発酵香へ移っていきます。
発酵中盤では香気成分の生成速度が大きくなる
微生物数が増え、糖や窒素源が十分にある時期には、発酵全体の代謝速度が大きくなります。
酵母ではアルコール発酵と並行して、高級アルコールやエステルの前駆物質が作られます。乳酸菌でも、乳酸だけでなくアセトアルデヒド、ジアセチル、アセトインなどを生成する場合があります。
ワイン発酵を15℃と28℃で比較した研究では、酵母由来の揮発性香気成分の生成速度が増殖段階によって変わることが示されました。つまり、同じ温度であっても発酵のどの段階にいるかによって、1時間あたりに作られる香気成分量は一定ではありません。
発酵後半では前駆物質が減り、代謝の流れが変わる
発酵が進むと糖や利用可能な窒素源が減少し、アルコールや有機酸などの生成物が増えます。
その結果、微生物の増殖速度が低下し、アミノ酸代謝や脂肪酸代謝など香気生成に関わる代謝の配分も変化します。
発酵初期には細胞増殖へ多く使われていた炭素や窒素が、中盤以降には発酵生成物やストレス応答へ別の割合で使われるため、香気成分の比率も時間とともに変わります。
このため、ある香りが発酵前半に強く作られ、別の香りは後半に増えるという時間差が生じます。
一部の香気成分は増えた後に減る
発酵中の香気成分は、すべてが単調に増えるわけではありません。
清酒もろみを15、20、25℃で発酵させた国内研究では、酢酸イソアミル、フェネチルアセテート、アセトイン、ジアセチルなどの一部成分が発酵の進行中に増加した後、減少する挙動を示しました。
このような減少は、成分が別の化合物へ変換されること、微生物代謝で再利用されること、揮発して液体から失われることなどで起こります。
したがって、香りのピークは必ずしも発酵終了時とは限りません。途中の時点で最も高くなり、その後は低下する成分もあります。
温度は香気成分を作る酵素反応の比率を変える
発酵温度が変わると、微生物の増殖速度だけでなく、香気生成に関わる酵素や遺伝子の働きも変化します。
ワイン酵母を15℃と28℃で比較した研究では、低温側と高温側で生成される香気成分のプロファイルが異なり、高級アルコールやエステルの合成に関係する遺伝子発現にも温度差がみられました。
つまり、温度は単に発酵全体を速めたり遅くしたりするだけではありません。炭素やアミノ酸がどの代謝経路へ流れるかを変え、最終的な香りの比率を変える条件でもあります。
同じ温度差でも香気成分ごとに反応が違う
温度を上げたとき、すべての香気成分が同じ割合で増えるわけではありません。
清酒の国内研究では、高温側で生成比率が増える高級アルコールやエステルがある一方、酢酸イソアミル、アセトイン、ジアセチルのように温度上昇で生成比率が下がる成分もありました。また、温度の影響が比較的小さい成分もありました。
この違いがあるため、温度を変えると「香りが強くなる・弱くなる」という一方向の変化ではなく、香り全体の構成比が変わります。
同じ総香気量でも、果実様、花様、バター様、硫黄様などの成分比率が変われば、感じる香りは大きく違います。
低温発酵では生成速度が遅くても残りやすい成分がある
低温では一般に微生物代謝が遅くなり、発酵時間が長くなります。しかし、低温だから香気成分が必ず少なくなるわけではありません。
ワイン研究では、低温条件で一部のフルーティーな酢酸エステルが高くなる例が報告されています。
この背景には、温度による代謝配分の違いだけでなく、香気成分の揮発しやすさの違いも関係します。温度が低いほど液体から気相へ移りにくい成分では、生成速度が遅くても最終的に液体中へ多く残ることがあります。
そのため、「低温=香りが弱い」「高温=香りが強い」と単純には言えません。
高温では香気成分が空気側へ移りやすくなる
香気成分は揮発性を持つため、温度が上がると一般に液体や食品から気相へ移りやすくなります。
ワイン発酵中の気液分配を調べた研究でも、香気成分の気液分配係数は温度と液体組成によって変化することが示されています。
したがって、高温である香気成分がたくさん作られたとしても、同時に気相へ逃げる量が増えれば、液体中に残る濃度は期待ほど増えない場合があります。
発酵食品の香りを考えるときには、「生成」と「保持」を分けて考える必要があります。
二酸化炭素は香気成分を発酵槽の外へ運ぶ
アルコール発酵では大量の二酸化炭素が発生します。気泡が液体から上昇して外へ出るとき、揮発性の香気成分も一緒に運ばれることがあります。
ブドウ果汁の発酵ガスを回収した研究では、発酵ガス中から酢酸イソアミル、イソアミルアルコール、脂肪酸エチルエステルなどが検出され、発酵中の二酸化炭素流によって香気成分が失われることが確認されています。
このため、発酵が最も活発で二酸化炭素発生量が多い時期には、香気成分の生成量が大きい一方で、外へ失われる量も大きくなる可能性があります。
「作られるピーク」と「食品中に残るピーク」は一致しない
香気成分の生成速度が最大になる時点と、食品中の濃度が最大になる時点は必ずしも同じではありません。
ある時点で生成速度が下がっても、それまでに蓄積した量が多ければ濃度はまだ上昇することがあります。反対に、生成が続いていても揮散や分解がそれ以上に速ければ濃度は低下します。
したがって、香気成分の時間変化を理解するには「どれだけ作られたか」だけでなく、「どれだけ失われたか」を同時に考える必要があります。
アセトアルデヒドやジアセチルは途中で別の成分へ変わる
発酵中に生じるアルデヒドやケトンの一部は、最終生成物ではなく代謝途中の物質でもあります。
たとえば、乳酸発酵で生じるアセトアルデヒドやジアセチル、アセトインは相互に関連する代謝経路の中で生成・変換されます。発酵段階や酸化還元状態が変わると、それぞれの濃度も変化します。
そのため、ヨーグルトなどでも発酵終了直後と保存後で香りが同じとは限りません。発酵停止後も残存酵素や微生物活動、酸化などによって香気成分の比率が変わる場合があります。
硫黄系の香気成分も時間とともに形を変える
ワインやビールなどでは、硫黄を含む香気成分がごく低濃度でも香りへ大きく影響します。
ワイン発酵中の揮発性硫黄化合物を時系列で調べた研究では、複数の硫黄化合物が発酵の進行に伴って異なる生成パターンを示しました。
硫黄化合物の中には、ある成分が別の硫黄化合物の前駆物質になるものもあります。このため、一つの成分だけを見ても香りの変化を十分には説明できません。
窒素量は香りの生成速度と生成時期を変える
酵母が香気成分を作るには、糖だけでなく窒素源も重要です。アミノ酸は高級アルコールの前駆物質になり、窒素量は酵母の増殖や代謝速度にも影響します。
2023年のワイン発酵研究では、発酵温度、窒素添加量、窒素を加える時期が、発酵速度と香気成分の生成動態の両方へ有意に影響しました。
つまり、同じ最終窒素量でも、発酵開始時に与えるか、定常期付近に与えるかで香気成分が作られるタイミングや比率が変わる可能性があります。
香りは発酵終了後にも変化する
発酵が終わって糖消費がほぼ止まっても、香りの変化が完全に止まるとは限りません。
熟成中には、残った酵素による反応、エステル化や加水分解、酸化還元反応、微生物のゆっくりした代謝などが続く場合があります。
さらに、保存容器の密閉性、温度、酸素量によっても香気成分の保持や変換速度が変わります。
このため、発酵直後と数週間・数か月後では、同じ製品でも香りのプロフィールが異なることがあります。
香気成分の量と「感じる香り」は同じではない
分析で香気成分が増えたとしても、人が感じる香りが同じ割合で強くなるとは限りません。
香気成分ごとににおい閾値が大きく異なり、少量でも強く感じる成分があります。また、複数成分が混ざると、互いに強め合ったり隠し合ったりします。
温度や時間で香気成分の比率が少し変わるだけでも、閾値の低い成分が増減すれば、全体の香りの印象は大きく変わることがあります。
したがって、香りの時間変化は成分濃度の単純な合計ではなく、組成比と知覚の両方で評価する必要があります。
発酵温度を決めるときは速度と香りを同時に考える
高温にすれば発酵速度を速められる場合がありますが、香りの品質まで最適になるとは限りません。
温度を上げると、ある高級アルコールが増える一方で、好ましい酢酸エステルが減る場合があります。逆に低温では発酵時間が長くなっても、一部のエステルを保持しやすくなることがあります。
そのため、ワイン、ビール、清酒などでは、発酵時間だけを短くするのではなく、狙う香気プロフィールに合わせて温度を設計します。
発酵時間を延ばせば香りが良くなるとは限らない
発酵時間が長くなれば、すべての香気成分が増えるわけではありません。
ある成分は増え続けても、別の成分はピーク後に減少します。さらに、長時間になるほど原料の糖や窒素源が減り、酸やアルコールが蓄積するため、微生物の代謝状態も変わります。
したがって、望ましい香りを得るには「十分に発酵させる」だけではなく、「どの香気成分がどの時点で増え、どの時点から減るか」を考えて発酵終了や次工程への移行時点を決める必要があります。
香りの変化を調べるときは時系列で測る
発酵香を理解するには、完成品だけを分析するより、発酵初期・中期・後期で成分を追跡するほうが多くの情報を得られます。
- 発酵温度
- 経過時間
- 糖消費速度
- 菌数・酵母生存率
- エタノール・有機酸濃度
- 高級アルコール・エステル・アルデヒド・ケトン
- 発酵ガス量
- 官能評価
これらを合わせて見ることで、ある香気成分が「作られて増えている」のか、「生成は弱まったが残っている」のか、「揮散や変換によって減っている」のかを区別しやすくなります。
既存の香りの記事との違いは「一つの発酵内での時間変化」にある
発酵で香りが生まれる一般的な理由を理解することと、香気成分が発酵中にどう増減するかを理解することは別の問いです。
また、香りを決める代謝経路やにおい閾値を理解すること、ワイン・ヨーグルト・味噌など食品間で香りが違う理由を比較することも別の視点です。
ここで扱う中心は、同じ発酵系の中で、温度と時間の変化によって、香気成分の生成速度、変換速度、揮散速度、残存量がどう変化するかという動的な問題です。
まとめ
発酵中の香気成分が温度や時間で増えたり減ったりするのは、香りが微生物によって作られるだけでなく、別の成分へ変換され、再利用され、発酵ガスとともに揮散し、その速度が発酵段階ごとに変わるからです。
発酵初期は原料香が中心ですが、微生物が増えると高級アルコール、エステル、アルデヒド、ケトンなどが増えます。後半には糖や窒素源が減り、アルコールや酸が蓄積するため代謝の流れが変わります。一部の成分は途中で最大になった後に減少します。
温度は香気生成に関わる代謝経路と遺伝子発現を変えるだけでなく、香気成分の気液分配や揮散にも影響します。そのため、高温ほど香りが強い、低温ほど香りが弱いという単純な関係にはなりません。
したがって、発酵香の変化を理解するには、「何が作られるか」だけでなく、「いつ作られ、いつ変換され、どれだけ外へ逃げ、最終的にどれだけ残るか」を時間軸で見ることが重要です。発酵の香りは、生成と消失が同時に進む動的な成分バランスなのです。
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参考資料
- 原昌道・小松修治・大塚謙一「清酒醪の発酵管理に関する研究(第11報)発酵中の香気成分の挙動と発酵温度の関係」日本釀造協會雜誌, 1968.
- Molina AM, et al. Influence of wine fermentation temperature on the synthesis of yeast-derived volatile aroma compounds. Applied Microbiology and Biotechnology, 2007.
- Analysis of volatile compounds production kinetics: A study of the impact of nitrogen addition and temperature during alcoholic fermentation. Food Research International, 2023.
- Capture of Fermentation Gas from Fermentation of Grape Must. Foods, 2023.

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