発酵食品の香りは、仕込みの最初から最後まで同じではありません。漬物、みそ、しょうゆ、酒、後発酵茶などでは、発酵が進むにつれて酸っぱい香り、果実様の香り、アルコール様の香り、熟成したような香りへと印象が変わっていきます。
この変化は、同じ微生物がずっと同じ香気成分を作り続けるから起こるのではありません。発酵中には、糖、酸、酸素、塩分、pHなどの環境が時間とともに変わり、それに適した微生物へ主役が入れ替わります。さらに、ある微生物が作った代謝物を別の微生物が次の原料として利用することがあります。
結論から言うと、発酵中の香りが時間とともに変わるのは、微生物群集が段階的に入れ替わり、それぞれの微生物が作る代謝物や分解産物を次の微生物が利用することで、香気成分の原料と生成経路が連鎖的に変わるからです。したがって発酵香は、一種類の微生物が単独で完成させるというより、時間とともに変わる微生物群集全体の代謝の履歴として作られる場合があります。
発酵中の微生物はずっと同じではない
自然発酵や伝統発酵では、仕込み時点から最後まで同じ微生物だけが優勢とは限りません。最初に増えやすい微生物と、発酵後半に増えやすい微生物では、必要とする酸素量、好むpH、耐塩性、利用できる栄養源などが違います。
国内の伝統発酵食品に関する総説でも、発酵条件の変化に応じて細菌叢が移り変わり、乳酸菌などの優占化が起こることが示されています。発酵は「微生物が存在する状態」ではなく、環境条件とともに群集構成が動き続ける過程なのです。
この微生物群集の時間変化を微生物遷移や微生物叢の遷移と呼びます。
最初の微生物が環境を変え、次の微生物を呼び込む
発酵初期の微生物は、原料中の糖やアミノ酸を利用して増殖し、有機酸、アルコール、二酸化炭素などを作ります。
その結果、pHが下がったり酸素が減ったり、特定の栄養素が消費されたりします。すると、仕込み直後には増えにくかった耐酸性・耐塩性の高い微生物が増えやすくなります。
つまり、前の段階で優勢だった微生物の代謝そのものが、次の段階の環境を作ります。発酵中の微生物交代は外部から突然別の菌が加わるだけでなく、同じ発酵系の中で環境が変化することで起こります。
香りが変わるのは、優勢な微生物が作る代謝物が違うから
微生物の種類が違えば、持っている酵素や得意な代謝経路も違います。
乳酸菌は乳酸や酢酸などの有機酸を作りやすく、酵母はエタノール、高級アルコール、エステルなどを生成します。カビはたんぱく質やデンプンを分解する酵素を多く分泌し、後の微生物が利用できるアミノ酸や糖を増やします。
そのため、優勢な微生物が入れ替われば、蓄積する香気成分や香気前駆体の種類も変わります。海外の発酵食品レビューでも、微生物群集の遷移と代謝物の蓄積が特徴香の形成へ大きく影響することが整理されています。
発酵の前半・中盤・後半で香りの主役が変わる
発酵初期には、原料由来の青い香りや生っぽい香りが残りやすく、そこへ初期微生物の有機酸やアルコールが加わります。
中盤では、乳酸菌や酵母などが増え、酸やアルコール、高級アルコール、エステル類の比率が変わります。後半では、酸性化、塩分、栄養枯渇などに耐えられる微生物が残り、熟成に関わる香気成分や分解産物が増える場合があります。
実際、発酵唐辛子の研究では、塩分と酸の変化に伴い優勢菌が入れ替わり、発酵段階ごとに異なる香気成分が蓄積しました。発酵の香りは、時間による微生物構成の変化と対応して動いているのです。
ある微生物の「廃棄物」が次の微生物には原料になる
微生物同士の関係で重要なのが、代謝物の受け渡しです。
ある微生物が糖を分解して乳酸や酢酸を作ると、その有機酸を別の微生物が利用することがあります。たんぱく質分解菌が作ったアミノ酸を酵母が利用して高級アルコールを作る場合もあります。
このように、ある生物の代謝産物を別の生物が栄養源や香気前駆体として使う関係は、一般にクロスフィーディングと呼ばれます。
発酵食品では、この代謝物の受け渡しによって、一種類の微生物だけでは作りにくい複雑な香りが形成されます。
たんぱく質を分解する微生物が、香りの材料を用意する
みそ、しょうゆ、チーズなどでは、たんぱく質の分解が香り形成に重要です。
カビや細菌がプロテアーゼを分泌すると、たんぱく質はペプチドやアミノ酸へ分解されます。これらのアミノ酸は、そのまま味に寄与するだけでなく、酵母やほかの細菌が使う香気前駆体になります。
たとえばロイシンやフェニルアラニンなどは、高級アルコールやアルデヒドへ変換され、麦芽様、花様などの香りに関わります。
つまり、たんぱく質分解菌が直接すべての香りを作らなくても、後続の微生物が香気成分を作るための材料を増やすことで重要な役割を果たします。
糖を分解する微生物が作った酸も、次の代謝を変える
糖代謝から作られる乳酸、酢酸、コハク酸などの有機酸は、味を作るだけでなく発酵環境を変えます。
酸が増えてpHが下がると、酸に弱い微生物は減り、耐酸性の微生物が優勢になります。また、一部の微生物は有機酸自体を炭素源として利用します。
近年の発酵大豆ペーストに関するレビューでは、酵母が乳酸を利用してエステル形成へつなげるようなクロスフィーディングの例が整理されています。
このように、一つの代謝物は「最終産物」であると同時に「次の反応の原料」でもあります。
酵母は別の微生物が用意した材料から香りを増やす
酵母は、糖からエタノールを作るだけでなく、アミノ酸や有機酸、脂肪酸などを利用して高級アルコールやエステルを作ります。
みそ・しょうゆでは、麹菌による原料分解で糖やアミノ酸が増え、その後の酵母活動が特徴香形成へつながります。
国内研究では、しょうゆやみその特徴香成分HEMFが、メイラード反応で形成された前駆物質と酵母の代謝の組み合わせから生成されることが示されています。
つまり、酵母だけを取り出しても同じ香りは作れず、それ以前の微生物や非酵素反応が作った材料との連携が必要な場合があります。
碁石茶では微生物ごとに違う香気成分を作る
後発酵茶の碁石茶では、複数の微生物が香り形成に関与します。
国内研究では、Aspergillus niger、Pichia manshurica、Lactobacillus plantarumを用いた試験から、それぞれが異なる香気成分群の形成に寄与することが示されました。
カビではフラノンや含窒素化合物、酵母ではエステル・アルコール・フェノール類、乳酸菌では有機酸やラクトンなど、得意とする生成物が異なります。
実際の発酵では、これらの微生物が時間的・空間的に共存しながら働くため、香りは一種類の微生物の特徴ではなく、複数の代謝が重なった結果になります。
微生物同士は助け合うだけでなく競争もする
発酵中の微生物関係は、クロスフィーディングのような協力だけではありません。
糖、アミノ酸、酸素、空間をめぐって競争も起こります。ある微生物が速く増殖して栄養を消費すると、別の微生物が増えにくくなることがあります。
また、乳酸や酢酸、エタノール、抗菌性物質を作ることで、競合微生物を抑える場合もあります。
この競争によって群集構成が変化し、結果として香気成分の生成経路も変わります。どの菌がいるかだけでなく、菌同士がどのように相互作用しているかが重要です。
塩分やpHが微生物の交代順序を選ぶ
発酵食品では、塩分やpHが強力な選択圧になります。
高塩分では塩に弱い微生物が増えにくくなり、耐塩性の乳酸菌や酵母が残りやすくなります。pHが低下すると、酸に強い菌が優勢になります。
発酵唐辛子の研究では、塩分条件によって優勢微生物と香気成分の分布が変化しました。つまり、塩は単なる調味料ではなく、発酵中の微生物群集を選択する環境因子でもあります。
この環境選択が、最終的な香りの違いにつながります。
酸素条件の変化も、微生物の入れ替わりを起こす
発酵初期には容器内や原料の隙間に酸素が存在していても、微生物の呼吸や発酵が進むにつれて酸素量は減ります。
酸素が多い環境を好む微生物と、低酸素・嫌気条件でも増殖できる微生物では、活動しやすい時期が異なります。
最近の発酵大豆食品のレビューでも、好気的な段階から嫌気的な段階への移行が、微生物遷移と香味代謝物の蓄積に関係することが整理されています。
発酵槽の表面と内部で香りが違う場合があるのも、酸素条件の差が一因です。
香りの変化は「菌が増えた量」だけでは説明できない
ある微生物が多く存在しているからといって、その微生物が香り形成に最も強く寄与しているとは限りません。
少数でも香気生成酵素の活性が高い菌や、非常に低い嗅覚閾値の香気成分を作る菌は、香りに大きな影響を与える可能性があります。
逆に、菌数が多くても主に酸を作るだけで、直接的な香気寄与が小さい場合もあります。
そのため、微生物叢解析だけでなく、メタボローム解析、メタゲノム・メタトランスクリプトーム解析、香気分析などを組み合わせて、誰が何を作っているかを調べる必要があります。
メタゲノムとメタボロームを組み合わせると代謝のつながりが見える
近年の発酵研究では、微生物の種類を調べるだけでなく、代謝物の時間変化を同時に測定する方法が使われています。
たとえば、ある菌が増えた時期に特定のエステルが増える、別の菌が増えた後に有機酸が減って別の香気成分が増える、といった相関を見ることができます。
さらに遺伝子情報から、どの微生物がどの代謝経路を持つかを推定すれば、香気成分形成のネットワークを再構築できます。
海外のレビューでは、こうしたマルチオミクス解析によって、乳酸菌、酵母、カビなどの相互作用と香味形成を対応づける研究が進んでいます。
「一種類のスターター菌」で完全再現できない発酵もある
工業的な発酵では、品質を安定させるためにスターター菌が使われます。
しかし、伝統発酵食品の複雑な香りを一種類の菌だけで完全に再現するのは難しい場合があります。香りの形成に、複数の微生物による段階的な分解と代謝物の受け渡しが関わるからです。
そこで近年は、役割の異なる複数菌を組み合わせる合成微生物群集や混合スターターの研究が進んでいます。
重要なのは菌数を増やすことではなく、「前駆体を作る菌」「酸を作る菌」「エステルを作る菌」などの機能を組み合わせ、発酵順序と環境条件を制御することです。
発酵時間が長いほど香りが良くなるわけではない
微生物遷移と代謝物の受け渡しが進むなら、長く発酵させるほど複雑な香りになるように思えます。
しかし、発酵が長すぎると、好ましい香気成分が別の物質へ分解されたり、酸やアルコールが過剰になったり、望ましくない微生物が増えたりする可能性があります。
ある段階で最大になった香気成分が、後半では減少することもあります。
そのため、最適な発酵時間は「微生物が十分増えた時間」ではなく、微生物群集と香味代謝物が目的のバランスに達した時間として考える必要があります。
香りの再現性には「微生物の順番」を管理することが重要
発酵食品の香りを安定させるには、最終的にどの菌がいるかだけでなく、どの菌がどの順番で優勢になったかも重要です。
初期に十分な酸が作られなければ、後続の耐酸性菌が期待通りに増えないことがあります。前駆体を作る菌が働かなければ、後から酵母を加えても目的の香気成分が増えないことがあります。
つまり、発酵品質は静止画ではなく時間軸を持つ過程です。
温度、塩分、酸素、スターター添加時期などを調整して、微生物遷移の順序を制御することが、香りの再現性向上につながります。
まとめ
発酵中の香りが時間とともに変わるのは、微生物群集が固定されているのではなく、pH、塩分、酸素、栄養状態などの変化に応じて優勢な微生物が入れ替わるからです。微生物ごとに持つ酵素と代謝経路が異なるため、群集構成が変われば生成するアルコール、エステル、有機酸、アルデヒドなどの組み合わせも変わります。
さらに、ある微生物が作った糖、アミノ酸、有機酸などを別の微生物が利用するクロスフィーディングによって、香気生成は段階的につながります。発酵食品の複雑な香りは、一種類の微生物の代謝ではなく、複数の微生物が時間をずらして材料を受け渡すことで形成される場合があります。
つまり発酵香を理解するには、「どの微生物がいるか」だけでなく、「いつ優勢になり、何を作り、その代謝物を次に誰が利用したか」という時間的な代謝ネットワークを見ることが重要です。発酵の香りは、微生物群集の入れ替わりと代謝物の受け渡しが積み重なった結果なのです。
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参考文献・出典
- 小栁喬「伝統発酵食品中に築かれる細菌叢の変遷と多様性」日本乳酸菌学会誌
- 菅原悦子「醤油と味噌の特有香気成分はメイラード反応と酵母の活動によって生成される」におい・かおり環境学会誌
- The regulation of key flavor of traditional fermented food by microbial metabolism: A review.
- Microbial succession and metabolic mechanisms driving flavor evolution in Northeast Chinese dajiang: a comprehensive review integrating insights from East Asian fermented soybean pastes.

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