だし、コーヒー、スープなどは、温め始めると急に香りが立つことがあります。ところが、そのまま加熱を続けると、最初ほど香らなくなったり、香りの質が変わったりします。
この現象は一見矛盾しているように見えます。温度が上がれば香気成分は揮発しやすくなるのに、なぜ加熱を続けると香りが弱くなることがあるのでしょうか。
結論から言うと、温め始めには香気成分の蒸気圧上昇や食品中からの抽出によって気相中の香気が急増しますが、加熱を続けると食品中に残る香気成分そのものが減り、開放系では空気中へ失われる速度が供給速度を上回るためです。さらに長時間加熱では、既存香気の減少だけでなく、新しい加熱香の生成や分解も加わるため、香りは「強くなる→弱くなる」という単純な一方向ではなく、時間とともに質も量も変化します。
温めると香気成分は気相へ移りやすくなる
香りを感じるためには、食品中の香気成分が液体や固体の中から気相へ移り、鼻へ届く必要があります。
温度が上がると、多くの揮発性成分の蒸気圧は高くなり、液相から気相へ移りやすくなります。
そのため、冷たい飲み物より温かい飲み物の方が、注いだ直後に香りが立ちやすくなります。
温め始めには食品中に残っていた香気が一気に出る
加熱前の食品には、多くの香気成分が水相、油相、固形分、たんぱく質などに分配されています。
温度が上がると分子運動が活発になり、食品内部から表面への拡散も速くなります。
その結果、加熱開始直後には、もともと食品中に蓄えられていた香気成分が気相へ急速に移り、「急に香る」状態が起こります。
インスタントコーヒーでは熱湯添加直後に「香りのバースト」が起こる
インスタントコーヒーへ熱湯を加えたときの香気放出をリアルタイムで測定した研究では、湯を加えた直後の数秒間に香気成分が急速に放出され、その後ヘッドスペース中の強度が低下しました。
この初期の急激な放出は「aroma burst」と呼ばれ、香気成分の蒸気圧、ヘンリー定数、水への溶けやすさなどによって成分ごとの時間変化が異なりました。
つまり、温め始めの強い香りは、加熱で香気が新しく作られた結果とは限らず、すでに存在していた香気が急速に気相へ移った結果でもあります。
だしでは短時間加熱でヘッドスペース香気が最大になることがある
鰹節だしの低沸点香気を調べた国内研究では、沸騰水浴で1分加熱したとき、多くの中性香気成分とフェノール性成分のヘッドスペース濃度が最大になりました。
その後、加熱時間を延ばすと、多くの香気成分は減少しました。
これは、短時間では鰹節から香気が十分に抽出されて気相へ移る一方、長時間になると開放系からの揮散損失が大きくなるためと考えられています。
加熱を続けると「香気の在庫」が減っていく
加熱開始直後は、食品内部にまだ多くの香気成分が残っています。
しかし気相へ移った香気が鍋やカップの外へ逃げ続ければ、食品中に残る香気成分の量は減っていきます。
やがて食品内部から表面へ補給される速度より、表面から空気中へ失われる速度の方が大きくなります。
この段階では温度が高いままでも、ヘッドスペース中の香気濃度は低下し始めます。
香りの強さは温度だけでなく「残っている量」で決まる
同じ温度なら、香気成分の揮発しやすさは大きく変わりません。
それでも加熱時間が長くなると香りが弱くなるのは、元になる香気成分の残存量が減るためです。
つまり香気放出は、温度による揮発しやすさ × 食品中に残っている香気量 × 内部から表面への移動速度の組み合わせで決まります。
開放加熱ほど香気は失われやすい
鍋のふたを開けたまま加熱すると、気相へ出た香気成分は周囲の空気へ拡散して失われます。
鰹節だしの研究でも、閉鎖加熱と開放加熱を比較すると、加熱中に香気成分がかなり揮散減少することが確認されました。
一方、ふたをした容器では、香気を含む蒸気の一部が凝縮し、液体へ戻ることがあります。
そのため、同じ温度・時間でも容器の開放度によって香りの残り方が変わります。
表面積が大きいほど香気は速く逃げやすい
広い鍋や浅い皿では、液体と空気が接する面積が大きくなります。
気液界面が大きいほど、単位時間あたりに香気成分が気相へ移る機会が増えます。
そのため、同じ量のスープでも、狭い容器より広い鍋で加熱した方が香りの立ち上がりが速く、同時に長時間では損失も大きくなることがあります。
攪拌すると香りは立ちやすいが、失われやすくもなる
かき混ぜると液体内部の香気成分が表面へ運ばれやすくなります。
そのため、一時的には香りが強く立ちます。
しかし、表面へ運ばれた香気が開放空間へ逃げれば、食品全体としての香気残存量は早く減ります。
攪拌は香気放出を促す操作であると同時に、香気損失を促す操作でもあります。
香気成分によってピークになる時間は違う
食品の香りは一つの成分ではなく、多数の揮発性成分の混合物です。
低沸点で水に溶けにくい成分は早く気相へ出やすく、高沸点または食品マトリックスへ強く保持される成分は遅く出る傾向があります。
コーヒーのヘッドスペース分析でも、最適な平衡化時間は化学成分群によって異なることが示されています。
そのため、加熱時間が変わると香りの強さだけでなく、混合比そのものも変化します。
早く飛ぶ成分が減ると香りの質も変わる
加熱初期には、低沸点で揮発性の高い成分が強く感じられる場合があります。
その後、それらが食品中から減ると、比較的揮発しにくい成分や加熱で新たに生じた成分の比率が高くなります。
その結果、同じ食品でも加熱開始直後と長時間加熱後では、単に弱くなるだけでなく「別の香り」に感じられることがあります。
長時間加熱では新しい香気成分も作られる
加熱を続けると既存香気が失われる一方、糖、アミノ酸、核酸関連物質などから新しい加熱香が生成することがあります。
鰹節だしの別の国内研究では、長時間加熱によってアルキルピラジン類、フルフラール、フルフリルアルコール、ピロール類などが生成し、さらに加熱時間が長くなると含硫・含窒素化合物も生じることが確認されています。
つまり長時間加熱では、「もともとの香りが減る」現象と「新しい加熱香が生まれる」現象が同時に起こります。
だから長く加熱しても香りがゼロになるわけではない
既存の芳香成分が減っても、熱反応で別の揮発性成分が生じれば、香り自体は残ります。
ただし、その香りは加熱前や短時間加熱時の香りとは質が異なります。
たとえば、フレッシュで軽い香りが減り、煮詰めたような香り、ロースト様、焦香に近い成分が相対的に目立つことがあります。
煮詰めると濃度が上がるのに香りが弱くなることがある理由
水分が蒸発すると、糖、塩、アミノ酸などの不揮発性成分は濃縮されます。
そのため味は濃くなります。
しかし香気成分は揮発性なので、水分と一緒に気相へ移って系外へ失われます。
つまり「煮詰めて濃くなる」のは主に残留する不揮発性成分であり、香気成分まで同じように濃縮されるとは限りません。
温度が高いほど初期放出は速いが、消耗も速くなる
温度を上げると香気放出は速くなります。
しかし開放系では、その分だけ食品中の香気在庫も速く減る可能性があります。
つまり、高温は「香りを強くする条件」であると同時に、「香りを早く使い切る条件」にもなり得ます。
この二つが競合するため、香りには時間的なピークが生じます。
高温短時間と低温長時間では同じ結果にならない
同じ最終温度でも、そこへ短時間で到達するか、ゆっくり温めるかで香気の履歴は変わります。
高温短時間では急速な放出が起こり、低温長時間では緩やかな放出が長く続く場合があります。
さらに長時間加熱では化学反応による新しい香気生成も増えるため、最終的な香りは時間―温度履歴で決まります。
再加熱した飲み物の香りが違うのも同じ考え方で説明できる
一度温めて冷ました飲み物を再加熱すると、初回加熱時と同じ香りに戻らないことがあります。
初回加熱で揮発性の高い成分がすでに失われているためです。
再加熱で温度は戻っても、香気成分の組成と残存量までは元に戻りません。
香りを残したいなら「必要以上に加熱しない」ことが重要
フレッシュな香りを重視する食品では、必要以上に長く加熱しない方が香気を保持しやすくなります。
だしのように短時間で香気抽出が進む食品では、抽出後も沸騰を続けると、得られた芳香をそのまま空気中へ逃がしてしまう可能性があります。
一方、煮込み料理のように加熱香の形成を狙う場合は、長時間加熱そのものが香り設計の一部になります。
香りの最適加熱時間は食品によって違う
鰹節だしでは短時間で芳香成分が十分に抽出されますが、肉や野菜では内部から香味成分が出るまで時間が必要な場合があります。
コーヒーや茶では、抽出と揮散が同時に進みます。
したがって、「香りは何分加熱すれば最大になる」という共通の時間はありません。
食品構造、香気成分の性質、加熱温度、表面積、攪拌、容器の開放度によってピーク時間は変わります。
まとめ
だしや飲み物の香りが温め始めに強くなり、加熱を続けると弱くなることがあるのは、香気放出に「立ち上がり」と「消耗」の両方があるからです。
温め始めには温度上昇で蒸気圧や拡散速度が上がり、食品中に蓄えられていた香気が気相へ急速に出ます。しかし加熱を続けると、開放系では香気成分が空気中へ失われ、食品中の残存量が減ります。さらに長時間加熱では新しい加熱香の生成や既存香気の分解も進み、香りの質も変化します。
つまり香りの時間変化を理解するには、「温度が高いほど揮発する」という一点だけでなく、「香気が食品からどれだけ供給され、どれだけ空気中へ失われ、どの時点から新しい香気が生成するか」を時間軸で見ることが重要です。香りは温度だけでなく、加熱してから何分たったかによっても大きく変わるのです。
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参考文献・出典
- 塩崎啓子ほか「加熱による鰹節だし汁低沸点香気成分の変化」家政学雑誌
- 久保田紀久枝ほか「加熱によるかつお節だし汁の香気形成」日本家政学会誌
- Novel experimental approach to study aroma release upon reconstitution of instant coffee products.
- Optimizing headspace temperature and time sampling for identification of volatile compounds in ground roasted Arabica coffee.

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