果物の香りは、果実の中に最初から完成した「香り」が入っていることで生まれるわけではありません。果実の細胞では、脂肪酸、アミノ酸、テルペノイド、カロテノイドなどを材料に、さまざまな酵素反応によって揮発性の香気成分が作られます。
作られた成分の一部はそのまま空気中へ放出され、別の一部は糖などと結合した状態で一時的に蓄えられます。そして成熟、切断、貯蔵、加工などをきっかけに遊離すると、鼻まで届いて「リンゴらしい」「バナナらしい」「柑橘らしい」と感じられる香りになります。
つまり果物の香りは、材料から香気成分を作る代謝と、作られた成分を保持・放出する仕組みが連携して生じる現象です。
結論:果物の香りは、揮発性成分を作り、変換し、放出する仕組みで生まれる
果物の香りが生じる仕組みは、次の流れで整理できます。
- 脂肪酸、アミノ酸、テルペノイド、カロテノイドなどが香気成分の材料になる
- 酵素反応によってアルデヒド、アルコール、エステル、テルペン、ラクトンなどが作られる
- 成熟に伴って香気合成に関わる酵素や遺伝子の働きが変化する
- 一部の香気成分は糖と結合し、香りにくい前駆体として蓄えられる
- 遊離した香気成分は果実組織から空気中へ移動する
- 鼻に届いた複数の成分が組み合わさり、その果物らしい香りとして知覚される
このため、果物の香りは一つの物質や一つの酵素では説明できません。多数の代謝経路と放出機構の組み合わせによって作られます。
香りの正体は、空気中へ移動できる揮発性成分
果物の香りを感じるためには、香気成分が果実の中に存在するだけでは足りません。果肉や果皮から空気中へ移動し、鼻の嗅覚受容体まで届く必要があります。
このように比較的蒸発しやすい成分を揮発性有機化合物と呼びます。
果実香気の研究では、代表的な揮発性成分としてエステル、アルコール、アルデヒド、ケトン、ラクトン、テルペノイド、アポカロテノイドなどが挙げられています。
果物ごとに、これらの種類と濃度の組み合わせが異なるため、香りの個性が生まれます。
脂肪酸からは、青い香りやエステルの材料が作られる
果実の香気形成で重要な材料の一つが脂肪酸です。
リノール酸やリノレン酸などの脂肪酸は、リポキシゲナーゼという酵素によって酸化され、その後いくつかの酵素反応を経て、炭素数6前後のアルデヒドやアルコールになります。
これらには、切った草や青葉を思わせる「青い香り」を持つものがあります。
さらにアルコールは、後の反応でエステルの材料にもなります。つまり脂質由来経路は、未熟果の青い香りから熟した果実のフルーティーな香りまで、幅広い香気形成に関係しています。
LOX、HPL、ADHという酵素が、脂肪酸由来の香りを作る
脂肪酸由来の香気経路では、複数の酵素が順番に働きます。
まずリポキシゲナーゼ(LOX)が不飽和脂肪酸を酸化し、ヒドロペルオキシドを作ります。
次にヒドロペルオキシドリアーゼ(HPL)がそれを切断し、アルデヒドを作ります。そしてアルコール脱水素酵素(ADH)がアルデヒドをアルコールへ変換します。
こうしてできたアルコールは、そのまま香りとして働く場合もあれば、次のエステル合成反応へ使われる場合もあります。
フルーティーなエステルは、アルコールと有機酸由来成分から作られる
リンゴ、バナナ、洋ナシ、イチゴなどの「果物らしい甘い香り」には、エステル類が重要です。
エステルは、アルコールとアシルCoAを基質として、アルコールアシルトランスフェラーゼ(AAT)という酵素が反応を進めることで作られます。
リンゴ香気のレビューでは、LOX、ADH、AATが揮発性香気成分の形成に関わる主要酵素として整理されています。
AATがどのアルコールとアシルCoAを使いやすいかによって、生成するエステルの種類が変わります。この違いが品種特有の香りにもつながります。
成熟するとエステル香が強くなるのは、酵素系が切り替わるから
未熟な果実では、青い香りを持つアルデヒド類が目立つことがあります。
成熟が進むと、ADHやAATなどの働きが変わり、アルコールやエステルの生成が増える果物があります。
その結果、青い香りから、甘く熟した果物らしい香りへ組成が変化します。
ただし、すべての成分が一方向に増えるわけではありません。成熟に伴って増える成分、減る成分、ピークを迎えた後に再び減る成分があります。
アミノ酸も、重要な香気成分の材料になる
果実香気の材料は脂肪酸だけではありません。
ロイシン、イソロイシン、バリンなどの分岐鎖アミノ酸や、フェニルアラニンなどの芳香族アミノ酸も、香気成分の前駆体になります。
アミノ酸は脱アミノ化、脱炭酸、還元、酸化などの反応を経て、アルデヒド、アルコール、エステルなどへ変換されます。
2022年のレビューでも、アミノ酸とその代謝中間体は植物揮発性成分の重要な供給源であり、果実の香り形成に関わる複数の経路が存在すると整理されています。
テルペン類は、柑橘やブドウなどの特徴的な香りを作る
ミカン、レモン、ブドウなどでは、テルペン類が香りの重要な要素になります。
テルペンは、イソプレン単位を基本骨格とする化合物群で、リモネン、リナロール、ゲラニオールなど多くの香気成分があります。
これらは、細胞内のメバロン酸経路やMEP経路で作られた前駆体から、テルペン合成酵素によって生成します。
どのテルペン合成酵素が強く働くかによって、柑橘らしい、花のような、樹脂のような香りなど、果実の印象が変わります。
カロテノイドは、分解されると香りの材料になる
カロテノイドは黄色、橙色、赤色を作る色素として知られていますが、香気成分の材料にもなります。
カロテノイドが酵素によって切断されると、アポカロテノイドと呼ばれる揮発性成分が作られることがあります。
これらには、花、果実、紅茶のような香りを持つものがあります。
そのため、果実の色を作る代謝と香りを作る代謝は完全に独立しているわけではなく、一つの色素代謝が香気形成へつながる場合があります。
香気成分は「自由型」と「結合型」の両方で存在する
果実中の香気成分は、すべてがすぐに空気中へ出られる状態ではありません。
一部は自由な揮発性成分として存在しますが、別の一部は糖と結合した配糖体などの形で蓄積しています。
糖結合型は一般に揮発しにくいため、そのままでは香りへの寄与が小さくなります。
しかし成熟、貯蔵、加工などで結合が切れると、揮発性のアグリコンが放出され、香りに加わることがあります。
結合型香気成分は「香りの貯蔵庫」として働くことがある
2022年のレビューでは、ブドウ、サクランボ、キウイフルーツ、トマトなどで、糖結合型香気成分が自由型より高濃度で存在する例が整理されています。
このような結合型成分は、果実が香りを直接発散しすぎないよう一時的に保持する仕組みの一つと考えられます。
必要な時に加水分解されれば、潜在的に蓄えていた香気成分を放出できます。
したがって、果実の香りは「今空気中へ出ている成分」だけでなく、「まだ結合して蓄えられている前駆体」によっても変化します。
香りは、果実細胞から外へ出て初めて感じられる
香気成分が細胞内で作られても、空気中へ移動しなければ人は香りを感じられません。
揮発性成分は、細胞膜、細胞壁、細胞間隙、果皮などを通って果実外へ移動します。
その移動しやすさは、分子の大きさ、脂溶性、蒸気圧、細胞膜との親和性などによって異なります。
果皮が厚いか薄いか、表面のクチクラがどの程度発達しているかも、香気の放出速度に影響する可能性があります。
切ると香りが急に強くなるのは、放出と酵素反応が同時に起こるから
果物を切った瞬間、香りが急に強くなることがあります。
一つの理由は、果肉内部に閉じ込められていた揮発性成分が切断面から一気に放出されるためです。
もう一つは、細胞が壊れることで、それまで別々の場所に存在していた酵素と基質が接触し、新しい香気成分が短時間で生成するためです。
特に脂肪酸由来の青い香りは、組織破壊後のLOX経路によって急速に作られる場合があります。
果物の香りが品種ごとに違うのは、酵素と遺伝子の組み合わせが違うから
同じ果物でも、品種によって香りは大きく異なります。
その理由の一つが、香気生合成に関わる酵素を作る遺伝子の働き方の違いです。
近年の果実香気レビューでは、テルペン、脂肪酸由来成分、フェニルアラニン由来成分などの合成に関わる構造遺伝子や転写因子が多数報告されています。
どの酵素をどの時期にどれだけ作るかが違えば、生成する香気成分の比率も変わり、品種固有の香りになります。
香りの強さは、成分量だけでは決まらない
果実に多く含まれる成分が、必ずしも最も強く香るとは限りません。
香気成分には、それぞれ人がにおいを感じ始める濃度の目安があります。ごく少量でも強く感じる成分もあれば、多量に存在しても香りへの寄与が小さい成分もあります。
農研機構のリンゴ研究では、72種類の香気成分を解析し、その中でも特定の成分が嗜好性へ大きく影響することが示されています。
つまり、果物の香りは成分の総量ではなく、香りへの寄与が大きい成分の組み合わせで決まります。
成熟・保存で香りが変わるのは、合成・分解・放出のバランスが変わるから
収穫後も果実は生きているため、香気成分の合成、分解、結合、放出は続きます。
成熟が進むとAATなどの酵素活性が高まり、エステルが増える場合があります。一方、長期保存では基質不足や代謝低下によって好ましい香気が弱くなることもあります。
低酸素条件では正常な香気合成が抑えられたり、エタノールやエチルエステルが増えて異臭につながる場合もあります。
保存中の香りは、単に揮発して減るだけではなく、果実内部で代謝経路そのものが変化した結果として変わります。
まとめ
果物の香りは、脂肪酸、アミノ酸、テルペノイド、カロテノイドなどを材料に、複数の代謝経路で揮発性成分が作られることで生じます。
脂肪酸由来経路ではLOX、HPL、ADH、AATなどの酵素が働き、アルデヒド、アルコール、エステルなどが作られます。別の経路では、アミノ酸から香気成分が作られたり、テルペンやアポカロテノイドが生成したりします。
さらに一部の香気成分は糖と結合した状態で蓄えられ、成熟や加工によって遊離します。そして自由になった揮発性成分が果実組織から空気中へ移動し、鼻へ届くことで香りとして感じられます。
つまり果物の香りは、一つの香り物質ではなく、香気成分を作る・変換する・蓄える・放出する仕組み全体によって生まれているのです。
参考資料
- 農研機構:リンゴの香気成分(E,E)-α-farneseneの濃度変化は果実の嗜好性に影響する
- 日本食品工業学会誌:果実の香気成分、とくにエステル生成に関する研究
- Advances in fruit aroma volatile research
- Free and glycosidically bound aroma compounds in fruit: biosynthesis, transformation, and practical control

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